昔から、怖い話が好きだった。
実録、虚構を問わず、その手の本を読み、映画を観た、学生の頃には友人と連れ立って心霊スポットに行ったこともある。霊感というものが無かったから、私は無邪気にそれを楽しむことができた。
――<あの本>を手にするその時までは。
喫茶 蛇の目
――私は蓋を開いた。素材のわからない真っ白な箱の中では様々な色を含んだ暗闇が虫のように蠢いていた。『それ』は黒くぶよぶよとした皮膚をもった人の唇や指や耳のように見え、人の部品の断面からまるで宝石のような煌きをもった色彩が覗いている。
皮膚が泡立つ感覚を覚えて、私はそれに恐怖しているのだと気づいた。やはり、これはパンドラの箱だったのだ。そう思った時にはもう遅かった。
「『魔の胞子』ですか、いい本ですよねぇ、それ」
客が来るまでの暇つぶしに読んでいた古本を指して男は言った。黒いスーツを着た、なんとも胡散臭い男である。
「お客様ですか?」
突然の客に驚いた末に出たのがこの台詞だったというのが我ながら情けない。
私は『蛇の目』という、商店街はずれのごく小さな喫茶店の主人である。
昔は、店から路地を一つはずした稲荷神社に続く通りで隠れ家的な店が軒を連ねていたらしいが、今はその面影もなくすっかり鄙びている。
しかしそんな閑古鳥が住み着くような店でも、店は店である、まして十人入るか入れないかの小さな店だ、客が来たら気づかないわけがないはずだったが、よほどぼうっとしていたのか、本に夢中になっていたのか、私はその男がやってきたことにまったく気づかなかったのだ。
注文の珈琲を出すと、彼はカップを片手に待ってましたとばかりに話し始めた、お喋り好きな客は別段珍しくなかったが、彼の話は私がこれまで聞いてきた話の中でもとりわけ異端なものだった。
彼はコレクターなのだという、といっても絵画だの骨董だのといった物ではなく、「人の恐怖」を集めるコレクターなのだそうだ。
「恐怖ですか?」
「そう、恐怖です! 人の恐怖というものは現実であれ虚構であれたまらなく甘美で素晴らしい! 私はそれを集めるのが至上の生きがいなのですよ――あなたもそう思いませんか?」
「いえ、特には」
「そうですか? あなたは、随分と<怖がりたがり>のようだと思ったんですがねぇ」
男がニヤリと笑って、カウンター奥に積んであった本から一冊引き抜いた。上の本が崩れ始め、慌てて本の山を押さえる私をまったく気にせずに、男がぺらぺらとページを捲る。
「遺文社の本ですねぇ、私もここの本は好きなんですよ」
男の手の中にある本も、カウンターで読んでいた本と同じようにたまたま古書店で見つけたものである、『魂迷異聞』というタイトルで、どうやら同人誌らしいシンプルな装丁の本だが、収録された短編は奇怪で妙に引き込まれたから、置いていただけのものだ。
そう説明すると、男はそれはいい、と笑った。
「ここの本は好事家の中で時々話題に上がってる本らしいですがね、そんな奴らの手元にあるよりもずっといい」
「珍しい本なのですか?」
「ええ、とても。この本は見た通り、どこかの誰かが書いた話を集めた同人誌です、どこぞの文芸誌にこの本の中の話が載ったというわけでもない、著者名から探そうにも見たことも聞いたこともないペンネームで探しようがない、この本の版元である遺文社は、そんな本ばかり出版していたらしいのですがね。どうやら致命的に部数が少ないらしく、ほとんど市場に出てこない、出てきたとしても同じ本はまず出ないのだそうです。この版元の本は見つけたらまず一期一会と思わないといけない――とは、知り合いの骨董屋の言葉なんですがね」
「ほう」
「しかし、それ以外にも面白いところのある本なのですよ……あなたは、この本を読んだんですよね?」
「ええ、まぁ」
読んだ、途中で止めることが出来ず一通り読んでしまったが、あまり読み返したくなかった。
「これを読んで何か、奇妙な感じはしませんでしたか?」
「……どういう意味ですか?」
「そうですねぇ――例えば、そう、既視感を感じる、とか」
男の言葉が嫌な寒気となって臓腑をまさぐった。そうだ、この本の内容をどこかで見た気がするのだ、文章じゃない<何か>で、本の中ではない<何処か>で……。
「ご存知でしょう?」
「……いえ」
男は黙り込み私を見た、口元は笑っているのに、目は笑っていない、私から出てくる何かをじっと待っているようで落ち着かなかった。
しばらくの間店内を満たしていた沈黙を破ったのは、肩をすくめた黒衣の男だった。
「それは残念です、あなたも<私と同じ楽しみ>を持っているかと思ったのですが」
そこまで言うと、スーツケースを手にして席を立ち、会計をお願いします、と笑った。
「あの、お客様」
「何です?」
「一つ伺ってもよろしいですか?」
「ああ、はい、何を?」
「この出版社は、どこにあるのですか?」
「惜しいことに、何年も前に焼けてなくなってしまいました」
「それは……残念ですね」
「ええ、この魂が叫んでいるような文は本当に好きだったのですが――本当は、この本をお譲りしていただきたいと思って来たのですがね、どうやら、この本にはまだあなたが必要らしい」
「えっ」
「あなたがこの本をもう一度読み終えた頃、またここに来るとしますよ、それでは、また」
「それはどういう――お客様!」
忍び出て行く猫のようにあっという間に店から消えた男を呼び止めようと、慌てて店の出口から身を乗り出したが、もう遅かった。
店内には、珈琲の香りと散らばった本と、『魂迷異聞』が残っている。
この本は――。
――そう、ただの本ではなかったのだ。
黒衣の男の来訪から何年か経ったころ、店の押入れを整頓していた時にこの本を見つけ、やがて知ることになった。
この本は、「死者の最期の記録」だった。